母を亡くすということ。

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こんにちは。発達障害児や不登校児を育てる親御さんの味方でありたいと常に思っています。
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。

年明けですね。
去年は辛いことが多くありました。
一昨年の11月に母に癌が見つかり、まる1年の闘病の末に去年末に亡くなりました。
母はとても頑張っていた。病と闘い抜きました。
私を一生懸命に育ててくれた母でしたから、少しづついなくなってしまう予感を受け止めていく日々は苦しくて辛いものでした。
闘病生活を一緒に過ごす、ということは、少しづつ相手を失うことだと思いました。
あんなに逞しくて、怖くて、時には不愉快な言葉を投げられて嫌でたまらなかった母が、日に日に弱っていき、できないことが増えていくこと、それは「失う」恐怖と対峙し続けることでした。そして、ただただ寂しいものでした。

なぜ母のことを書くのかと言いますと、私のように大切な人を失って、孤独を感じている人がいるはずだからです。
孤独を感じなくなる方法の一つは、自分と似たような仲間を見つけることだと思います。
ブログの役割はそこにあるはずだと思います。

亡くなった母とわたしのこと


母は不登校の我が凸凹息子の数少ない理解者の1人でした。
小学5年生から学校に行けずに1人家で過ごす彼を心配して、ドライブやプールに連れ出してくれました。
凸凹息子にとってはもちろん、発達障害児を育てる私の唯一の理解者でもありました。
心無いきつい言葉も言われましたし、理解されていないと感じて大声でひどい言葉を投げかけてしまったこともありました。
理解してほしい、と心から叫び伝えることのできる唯一の存在でした。

母は激しい気性の持ち主でした。
自分のやりたいことにはいつも一生懸命な人でした。
決して自分の選択を誤っていると思うことはなく(少なくとも娘の私からはそう見えた)、猪突猛進で突き進む人でした。母の顔色を伺って生きていた私はその性質が羨ましくもありました。
私の姉もそんな性質を受け継いでいると思います。
自分が望むことは叶えられるという自信がいつもあるように感じるのです。
そんな母や姉と自分を比較して苦しくなる気持ちは、この年になっても消えることはないですし、さらに強くなっている気がします。
私が子供の頃は母が恐ろしくて、反抗する余裕もありませんでした。
手を上げられたことは何度もあります。
優秀な兄や姉と比べられ、「どうしてこんなにできない子なんだ」と感情的な言葉を投げかけられたこともあります。

母はまた、常識にとらわれない、普通であることを嫌うという性質も持っていました。
母は趣味として絵や俳句を嗜んでいましたが、それは趣味という枠を遥かに超えていました。
家には多くの書籍が所狭しと堆く積み上げられ、その中で母は母にしか作り出せない世界観の作品を創り出していました。
母にとって創作活動は、仕事であり、人生であり、その作品は母そのものです。母は句集を何冊も出版し、癌が発覚しても、もう一冊句集を出したい、と言いながら勉強や創作活動を続けていました。
私が小学生の頃、持って返ってきた図工の作品を見た母に「なんかつまらないわね。」と言われた事があります。
そう言われた途端、キラキラと見えていた作品は何の価値もないゴミ同然に色を無くしました。
きっと、母は、「もっと自由にあなたらしい作品を作らないと意味がないのよ。ただ上手なだけじゃ意味がないの。」と伝えていたのだと思います。
その価値観は、私に超えられない壁を与えましたが、それを越えたいという原動力にもなっています。

このように、母はただ優しく温かいという存在ではありませんでした。とても厳しかったし、「現状に負けず、努力して世界を切り開きなさい、自分だけの世界を。」と伝えてくれていたのだと思います。


母のことを思うと、いつも台所でお料理していた姿を思い出します。
なんでも手作りしてくれました。
手作りジャムクッキーは陶器のクッキー入れに入ってありましたし、クリスマスはホールのショートケーキ、大きな鶏の丸焼きにはご飯が詰められていて、大好きな恒例メニューでした。
コーヒーの味にも厳しく、「今回は淹れ方が悪い」「いや、豆が悪い」などやんややんや言いながら飲む時間は楽しいひと時でした。
お弁当はいつも茶色一色でしたが、全て手作りで作ってくれたことは、愛情を与え続けてくれたことの現れであったと今ではわかります。
子供が生まれてから実家に帰ると、母がご飯を作ってくれることがどんなに嬉しかったことか。
人に食事を作ってもらうことがどんなに特別なことか、今ではわかります。


子育てで悩んでいる私に、母は何度も、「棒ほど祈って、針ほど実るっていうのよ」と声をかけてくれました。
無駄かもしれないことをたくさんして、その中のほんの針の先端ほどだけが成果として現れるものだ、だから、無駄かもしれないことに手を尽くして一生懸命やりなさい、ということだったのだと思います。
母の、その話をする時にする、祈るように両手を擦り合わせる様子が今もありありと目に浮かびます。

母は、間違いなく、猪突猛進に一生懸命に私を育ててくれていました。本当に、ありがとう。

亡くなった母と我が凸凹息子のこと

そんな母は、我が凸凹息子に対して、「普通じゃなくて最高!」という価値を見出してくれました。
息子には、素晴らしい絵やイラスト、創作の才能があります。
普通じゃ思いつかない視点で作品を作成します。
その時の集中力は目を見張ります。
「A君(我が凸凹息子)には人と違うすごい才能がある。」といつも本人に声をかけてくれました。
息子が夏休みに作った作品を、母は、「ものすごい才能がある。これを本にしてあげる」と言って、実際に編集者に掛け合い、立派な一冊の本を出版してくれました。
その本には、不登校で自信喪失している息子への、「自分に自信を持って欲しい」という母の思いが込められています。
私にとっては厳しい母でしたが、孫にとっては優しく楽しい元気なユーモアのあるおばあちゃんでした。

私の2人の息子たちにとっても母の癌が見つかってからの日々はとても辛いものでした。
何度もおばあちゃんを失う恐怖に泣きました。
最後の最後までおばあちゃんに寄り添っていたと思います。
危篤状態になった時、息子たちは病院に駆けつけ、泣きながら最後の言葉を伝えました。
「いつも僕たちのために餃子をたくさん作ってくれてありがとう。もちピザを作ってくれてありがとう。ドーナツを作ってくれたりがとう。大好きだよ。今までありがとう。」
母はほとんど話せない状態でしたが、「いい子達だねえ。生まれてきてくれてありがとう」と言ってくれました。
とても大切な時間だったと思います。
最後にあんな素晴らしい言葉のプレゼントをくれたお母さん、ありがとう。
今も思い出すと胸が苦しくなり、涙が出ます。
今、母がいなくなること。それは、私の側から発達障害児を育てることを体当たりで一緒に考えてくれる人がいなくなることでした。母は、私の子供の育て方を否定したことが一度もありませんでした。いつも、「2人とも本当にいい子に育ったね」と言ってくれた。その言葉が、私を何度も救ってくれました。

私にはきつい言葉をかけることは何度もありましたが、我が息子たちを信じる気持ちや信念は誰よりも強かった。
もしかしたら母親である私よりも強い信念を持って接してくれていたかもしれません。
私は毎日息子たちの癇癪や思いどうりにならない現実、他人との比較に心が折れて逃げ出したくなっていますから。
だから寂しくて辛いです。
どうすればいいのかわからなくなります。
本当は、世界に一人ぼっちで子育てしている気がしています。
きっと世の中はこうやって生死が繰り返されていて、珍しい出来事ではないのでしょうが、どうやってみんなが乗り越えていっているのかがわからないのです。
時間が必要だと思います。

たった1人で子育てをしているあなたへ

きっと、今の私のように、世界でたった1人で子育てしているような気持ちになっている人がいると思います。
今、タリーズで記事を書いていますが、もしかしたら、隣の隣でコーヒーを飲んでいるあの人も同じ気持ちかもしれない。
一人ぼっちだ、なんて思わずに、お互い頑張っているねえって認めて繋がって支え合えたらいいなと思います。
私が目指すのはそういう場です。
今年は、きちんとブログも書いて、同じ気持ちのお母さんやお父さんが孤独を感じないで済むように、ほんの1マイクロくらいの貢献ができたらと思います。

隣の隣のお母さん。私も同じです。1人じゃない。大丈夫。

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