母親業という呪縛について

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凸凹日記

夏休みは熱海へ家族旅行へ行きました。そこでの出来事について書きたいと思います。発達特性のある息子が道端で癇癪を起こし、見知らぬ街熱海の人混みの中で姿を消したのです。恐怖と焦燥を経験した後、やっと見つかった時の安堵感。しかし、その安堵に至るまでの、警察からの冷ややかな態度と心無い言葉に、ひどく傷つけられました。助けを求めて駆け込んだのに、まず第一声に怒鳴られ叱られたのです。まるで犯罪者を見るような態度で職業など調書を取られました。どんな思いで交番に駆け込んだのか、ほんの少しの想像力を働かせることができれば、あんな態度はとらなかったはずです。

この経験は、単なる個人的な出来事を超えて、日本社会が抱える根深い問題を浮き彫りにしていると思います。特に、「母親」という存在に課せられた、不条理なまでの重圧と孤独感について、深く考えさせられました。

私たち母親は、どんな理不尽も我慢しなければならないという暗黙の前提の下で生きているように感じます。それが「良い母親」だという考え方が、社会に根強く残っているのです。しかし、この考え方こそが、母親を追い詰め、孤独にし、時には最悪の結果をもたらすのではないでしょうか。

虐待やネグレクトのニュースを目にするたび、私の心は痛み、胸が締め付けられます。そして同時に、行き場のない怒りも湧いてきます。なぜなら、そこにいなかった父親の責任が問われることは稀だからです。「父親不在」が当たり前のように語られ、全ての責任が母親一人に押し付けられる現状に、理不尽さを感じ怒りを覚えます。なぜそこにいたのは母親と子供だけだったのか。そこまで母親が追い詰められた背景はなんだったのだろうか。この疑問に気づき、焦点を当てて考えるひとはどれほどいるでしょうか。そこに焦点を当てて根元の問題を直視する男性はどれほどいるでしょうか。この現実はあまりに不公平で、女性にとって生きづらい世の中ではないでしょうか。

さらに言えば、母親を一人で全てを抱え込まざるを得ない環境に追い込んでいる周囲の人々や社会システムにも、大きな責任があるはずです。「子育ては母親の仕事」という固定観念、働く母親に対する理解の欠如、子育て支援の不足。これらが複雑に絡み合って、母親を孤立させているのです。

熱海での出来事を振り返ると、そこにも同じ構図が見えます。発達特性のある子どもの行動を「しつけの問題」と誤解する周囲の人々。その場にいない父親の存在が全く問題にされないこと。そして、困難な状況にある母親に寄り添うのではなく、批判的な目を向ける社会。

これらの問題は、以下のような根深い社会の歪みを示しています:

  1. 母親に対する過度な期待と責任の集中
  2. 父親の育児参加に対する社会の甘い認識
  3. 子育ての困難さに対する社会全体の理解不足
  4. 多様な家族形態や個別の事情への配慮の欠如
  5. 子育て支援システムの不十分さ

これらの問題を解決するためには、社会全体の意識改革が必要です。母親だけでなく、父親、地域社会、行政、そして私たち一人一人が、子育ての責任を分かち合う必要があります。

同時に、「完璧な母親」という幻想を捨て、互いの多様性を認め合い、支え合える社会を作ることが重要です。母親が孤独な戦いを強いられるのではなく、社会全体で子どもを育てるという意識の醸成が求められています。

熱海での経験は確かに苦いものでした。しかし、この経験を通じて、私たちの社会が抱える問題を再確認し、怒りを再沸騰させるきっかけにもなりました。一人の母親として、そして一人の人間として、より良い社会の実現に向けて声を上げ続けていきたいと思います。

母親の孤独な戦いを終わらせ、皆で手を取り合って子育てができる社会。それは夢物語のように感じてしまいます。それほど、まだまだ母親は孤独なままです。私たち一人一人の意識と行動が、その実現への第一歩となると思っています。

HINATA

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